ホーム 建築の心構え 数寄屋材 季節の室礼 数寄者の小道具 展示場 作品 アクセス 江戸の風一人事 お問い合せ




木場を愛でる

「水の中の仕業(しわざ)」









題:上木場℃V取り(さんどり)

画:川並 故石井赤太郎




川並衆(筏師)の労働歌であった木遣り≠フ声が今にも聞こえてくるような、業絵です。角材を正方形≠ノ積み上げている場面、これは桟取りと


呼ばれる仕業、良材を水中深く漬け込む為、悪い節の多い材を重石がわりに上へ上へと積み上げます。水中乾燥の業≠ナす。一般の方は


言葉から木が水の中で乾燥する訳が無いと思うかもしれませんが、実際水に漬け込まれた材は陸に揚げられてから水分の引きが驚くほど早く、


しかも製材した材の製品は板の仕上がりが良く、杢目も鮮やかな出来です。現場の大工さん、指物師の方からも鉋(かんな)の通りが良いと言われます。


また水中乾燥させた材は狂い、割れ、反りが少ないのが特徴です。


現在の新木場(東京江東区)に移転する以前(昭和46年)まで旧木場で一部続けられていた作業です。

















題:下木塲権兵衛稲荷



木は秋の彼岸頃より翌年の春の彼岸まで、つまり水の吸い上げがのなくなる冬場に伐採するのが良いと昔から言われています。製品時の仕上がりが


違います。夏場一番木にとって水を吸い上げている時期に伐採された材は、色が黒くなかなか乾燥しないと言われます。江戸時代、近郊の山々の材を


丸太のまま筏に組み、利根川・荒川水系から大川・中川と伝って深川木場に運ばれます。水路は重たい材を多量に運ぶのに便利です。木は筏に組まれる


時、節枝の多い部分はその重さにより水の中、節の無い部分は水の上に浮く形になり、この時点で良材と悪材の仕訳けが出来、また夏季、木皮に


産み付けられた虫の卵も死滅すると言う便利さも兼ね備えていました。江戸時代、度重なる大火で大きな建物(寛永寺を始め社寺普請)の需要と大量の


木材備蓄が必要とされました。














題:下木塲雑賀屋堀


深川木場*ヤの目に走っていた掘割、物流の利便さと水中乾燥≠ニいう備蓄面、この二つに尽きます。≠フ絵の雑雅屋の私的な水門奥の貯木堀、


私自身この時代にタイムスリップしてどんな材のお宝が浮かんでいたのでしょうか、見てみたい光景です。今年話題の伊勢神宮式年遷宮に納められる


木材(尾州桧)も各部材に木取りされ清流五十鈴川より水を導いた造営部の貯木場に、使われる10年前から最低2〜4年は水に漬け込まれ、ヤニ(油脂)抜き


が施されます。水中乾燥は古代より日本人と木の関わりの中で生まれた英知でもあります。1枚の絵、川並の作業の中からもこの事が紐解けます。












題:上木場伊勢喜代 霊泉井戸



またここで一般の方には旧木場と言っても海が近く汽水域といっても海水に漬け込んで木がダメになると思いがちです。江戸時代大きな河川は今と違い


堰やダムが無いので関東平野の下にはオーバーに言って真水のプールを抱えている状態でした。現在の江東区よりはるか埋立地の無い分、総面積は



小さく海がそこまで迫っていた時代でも網目に走っている掘割は海の干潮にあまり左右されず真水に近いと言われています。事実木材運搬に悪影響と



言われる水草(藻)が繁茂しすぎて年に1〜2回、藻刈船を出し、刈った藻が近郊の農家に肥料として売られていたそうです。この絵の右側に屋号の入った


水置きが見られます。当時から霊泉と言われた有名な井戸水で汲み置きした甕から通る人々の喉を潤したと伝えられています。江戸時代から今も続く


伊勢喜代(現江東区平野四丁目現代美術館脇)の霊泉井戸です。








墨画木場の面影≠謔闃ロ山暁峰(ぎょうほう)女史

提供: 活ノ勢喜代商店





深川木場、堀と水、水の中の仕業、水中乾燥のお話でした。













25.9.18 東京数寄屋倶楽部 村山元伸